ペン習字を10年続けて思うコト 「些細な悩み」編

インターネットが今ほど普及していなかった10年前は「ペン習字を通して字が上手くなった事例」を見つけるのは圧倒的に困難でした。

目にするのは広告主のフィルターを通した体験談ばかりで、失敗を含めた生の声は無いに等しく、ボールペン字講座という存在自体が雑誌裏によくある開運グッズの広告なみにマユツバ物でした。

「大人になってからでもクセ字は直るのか」という疑念が晴れぬまま申込ハガキを投函したときは、いよいよ怪しい商材に手を出してしまったぞと、半ばやけくそ気味に始めたのを覚えています。

かくして、道半ばで挫折しつつも、「字が上手くなる最も着実な方法はどうやら手本を忠実に真似する反復練習らしい」との答えに辿り着くのですが、頭の片隅では「手本の型がそのまま身につくなら、その人らしさは消えてしまうのだろうか」といった戸惑いが生じました。

ペン習字を10年続けて思うコト、第2回目は「ペン習字と個性の関係」について悩み、考えた話です。

第1回
ペン習字を10年続けて思うコト 「始めて良かった出来事」編
第2回
ペン習字を10年続けて思うコト 「些細な悩み」編
第3回
ペン習字を10年続けて思うコト 「上達のコツ」編

ペン習字は個性が失われる習い事?

人にはそれぞれ好みがあります。

ペン習字のような整然とした文字は多くの人に好まれる傾向にありますが、その一方でペン習字仕様の文字に違和感を持つ人たちがいるのも確かです。

ボールペン字講座を始めたばかりのころ、書道関係のブログを巡回していたときにこんな言葉を目にしました。

「手本をそのままコピーしたかのような文字は、いわばマネキンであり、書いたその人が見て取れない」 「揃いも揃って同じように書いた文字は、独創性がなく、つまらない」

まだペーペーだった頃の私は書道の先生がそう仰るのだからと変に納得してしまい、それ以降、この言葉が心のしこりとして残っていました。個性のない字は正しくないのだと。

基礎がないところに個性は育たない話

今にして思えば、大した技術もないうちから「自分らしさ」を求める思い上がりがあったように思います。恥ずかしいばかりです。

ペン習字を経験するほど、ひしひしと感じたのは、

  • 筆法や審美眼を高めるには、手本を真似る形臨が欠かせないこと。
  • 模倣をまともにできないうちから個性を出そうとすると、大抵は独りよがりで終わってしまうこと。

この事を自然と理解するのに3年以上は要した気がします。

似ているようで少し違う書道とペン習字

一時期、ペン習字のスキルアップに繋がればと書道教室にも通ったことがあります。

しかしそこで気づいたのは、書道とペン習字では「追求する文字の美が異なる」ことでした。

両者とも手本を真似て学ぶ点では共通しているものの、書道とペン習字はその先に見据える目的地が異なります。

書道
文字による自己表現(芸術科)
ペン習字
正しく整えて書くこと(国語科)

書道は自分の個性を作品として表現する手段なのに対して、ペン習字はTPOに合わせた相手にとって読みやすい書体を追求する違いがあります。

そもそもお互いの棲み分けが違うのだと理解してからは、「字が上手くなりたい」漠然とした気持ちがより明確になり、私はペン習字寄りのタイプなんだと自覚し始めました。

関連記事)書道とペン習字の違いはどこにある?

「正しく整えて書くこと」が目的なら、手本の書写に終始するだけでもいいのではと考えましたが、そこに「自分らしさ」という個性を付け加えるなら話は変わります。

「守・破・離」という考え方

ここから先は、書道的な考えが入ります。ペン習字というより「ペン書道」としての捉え方です。

自分らしい表現を叶える方法のひとつに「守・破・離」があります。

「守・破・離」とは、柔道や茶道といった「道」と名のつく稽古にまつわる修業段階を説明する教えです。

「守」とは、真似ることです。

ただ好きなように真似るのではなく、理屈抜きで師匠の型を忠実に模倣します。完成された手法を繰り返しなぞらえることで、その分野の原理・原則が身につき、0から1を生み出すよりも成果が生まれやすい練習法です。

「真似る」と「学ぶ」の語源は同じですから、「守」の教えは、物事の上達に欠かせない心構えでもあります。

このサイトで「好きな手本を選ぶのが第一義」と繰り返しお伝えているのは、良き師を探し求めることが「守」の教えに徹しやすいからです。

「破」とは、基本を守って身につけた技術から更なる応用を見出すため、他流を学び、研究することです。

型がしっかり身についているからこそ、今までの教えを破るのは容易ではありません。おごることなく謙虚に良いものを取り入れ、素直に学び、自分なりに試行錯誤を重ねるのが「破」の教えです。

「破」をペン習字に当てはめると、古典の臨書や他団体の競書誌に参加することでしょうか。他流の教えや考え方を通して、学んできた手本の特性を深く理解するのに役立ちます。

「離」とは、今までの鍛錬の集大成として独自の型を築くことです。

「離」の教えはペン習字の場合、「背臨」や「自運」といった類になると思います。

手本の型を徹底的に身に付ける「守」、他流のよい技を取り入れる「破」。伝統的な様式を踏まえた学習の中で安易な自己主張は取り払われます。

手本と向き合って何万回と書き続けた結果あらわれる手本との誤差は、器から溢れ出すうわずみのようであり、それを個性と呼ぶのでは。

現在はペン習字をこのように捉えながら練習しています。

色々な価値観があっていいと思う

私の場合、膨大な練習量から個性を見出すという方法を選びましたが、ペン習字が「習字」である以上、自分らしさを追い求める必要性はないと思っています。

「ペン習字を通してどんな字を書きたいか」に対する答えは、十人十色で目標とするゴール地点は人それぞれ違います。

  • 仕事柄、人前で書く機会が多いので、社会人として恥ずかしくない程度の字を書きたい。
  • 子どもの持ち物にはキレイな字で名入れしてあげたい。
  • 営業手段のひとつとしてキレイな字が書けるようになりたい。

このような目的であれば、型をしっかり身につける「守」の段階で満足する結果が手に入りますし、ペン習字の間口は、そもそもこのような悩みを抱えた人のために開かれているようにも感じます(私も悪筆を直したいとの思いからペン習字を始めました)。

とにかくやってみること。続けてみて初めて分かることがたくさんあります。そういった好奇心・探究心と向き合う過程で「自分にとってのペン習字とは何か」が自然と定まってきます。

書写としてのペン習字から一歩進んで学びたいと思ったときに、今回紹介した「守・破・離」の考え方を参考にしてみると、新しい道が見えてくるかもしれません。

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コメント

  1. おなわし より:

    こんには、はじめて

    おなじように、ただ人様に見せても恥ずかしくない字を書きたいと、昨年末からパイロットのペン習字をはじめました。

    しかし、毎月の課題をこなすだけで精一杯で、こんなのでいいのだろうか?練習量が足りないのでは?との不安を抱きながら続けていました。

    だけど、この記事でそれでも続けるとおのずと結果はついてくる。のだと安心しました。

    投げ出さずコツコツ続けるます。

    ブログ更新楽しみにしています^^

  2. uta より:

    おなわしさん、はじめまして。

    パイロットペン習字を受講されているのですね。

    ペン習字を始めてから少し経った今ぐらいの時期は、
    練習方法や学習量など自分が向かっている方向性について懐疑的になりがちです。
    独学に近い環境では、なおさら感じるのではないかと思います。

    おっしゃるとおりで、「継続は力なり」だと私も思います。
    ご健筆のほどをお祈りします。